「この間入った喫茶店ではコーヒーを注文したら、コーヒーカップにインスタントコーヒーを入れて持ってきて、目の前でお湯を注いでくれたのには驚きました。別のお店でもカウンターの上に、堂々と、インスタントコーヒーの瓶が並んでいました。レギュラーコーヒーを出すお店でもクリームだけは液状のものには、めったにお目にかからず、大抵あのパウダー状のものが、お砂糖の瓶と一緒に置いてあります。でもって、スプーンはついてなくて、お客さんがめいめい自分のを使い、足りなければ濡れたスプーンを又突っ込むという訳です。」
―― 1985年3月、自分でも理屈では説明のつかない、心の内より湧き上がる、韓国(語)への熱い思いに突き動かされ、留学を決意した私が身を置いたそのソウルは、パルパルオリンピックを控え、通りのあちこちで穴掘り工事真っ盛り。舞い上がる土ぼこり。ゲホッ、ゴホッ。ある日、お茶目な「学友」に誘われて、おそらくは「関係者以外立ち入り禁止」であったはずの、完成前のオリンピック競技場への忍び込み大作戦決行。人っ子一人いない大空間にチョコマカ動くものがいたら、いやでも目につきます。守衛のおじさんが「コラ~ッ!」(って、異国の言葉で怒鳴る訳ないですけど)。心臓も飛び出さんばかりのその怒声に一目散。ゼイゼイ、ハアハア…… 二人で顔を見合わせて、ハハハッ!「喉、渇いたね、お茶でも飲もうか。」と言って入ったのが冒頭の喫茶店 ― であったのかは、記憶は定かでないのですが。
「10年の歳月には、山河も変わる」という意味の言い慣わしが韓国にはあります。韓国の輝かしい歴史のひとコマは、山も河も二度の姿変えを終えるほどの永い歳月の流れた、遠い過去のこととなりました。冒頭の“この間”は、それよりも更には3年の時を遡る、今は昔の“この間”です。
当時の留学生活での見聞をあれこれ、日本の家族や友人たちに書き送り、ご丁寧にもそれを更に「韓国生活記録」なる、面白みのカケラもないタイトルを付したノートに書き写していました。冒頭の文はその一節です。この「粉で出てきた喫茶店のコーヒー」は、私には「衝撃の経験」で、留学時代のことに話が及ぶと決まって飛び出す定番話です。ただ、今読むと、少々物足りません。お店の雰囲気、回りのお客さん、コーヒーの値段など。書き留めておくべきことはもっとあったでしょ、ポカッ。今更頭を叩いたところで記憶はよみがえりません。
そこでここからは、信頼すべき書物に助っ人を頼みます。「韓国語教本」―― 当時使用した延世大学校韓国語学堂のテキスト(1965年初版/1984年8版)です。すべての章が会話文で構成され、その中からさまざまな文型を学ぶ仕組みです。まさに「タバン(茶房)」というタイトルの章があります。タバンという場面設定で登場人物たちにしゃべらせている話の内容は著者、即ち、当時の韓国の有識者の目を通して映し出された当時の韓国の姿であることに、今読み返して改めて気付き、一層の興味を覚えました。「西洋」のいずれかのお国のスミスさんが金さんと一緒に、韓国に来て始めてタバンに入ります。二人の会話が、タバンの姿を伝えてくれると同時に、当時の韓国の人たちの生活のありようも私たちに教えてくれています。
スミス「ほんとに素晴らしい所ですね。」
金「西洋の国々に比べて韓国ではタバンが随分発達していると思いますよ。」
スミス「東洋的、韓国的香りが漂う飾りが気に入りました。」
スミスさんのこの感想に金さんの頭の中には自国の来し方がサッとよぎったようです。
金「戦後、室内装飾がとどまることなく発達してきていますよ。」
戦後、という言葉に少々驚きます。朝鮮戦争のことでしょうか。初版の内容が改定されていないとすれば、’65年は、戦後まだ10余年。変化の基点に持ち出すには一番近い歴史の節目かもしれません。「戦後」という言葉がまだ身近な時代ということでしょう、スミスさんの口からも「ここのところ、経済的にとても大変なようだけれど」との言葉がもれ、そしてこう続けます。
スミス「こんなにたくさんの人がここに……」
金「韓国の家には応接室のようなものがなく、お客様を家でもてなすことができない場合があります……それで交通の便利な所をお互い話し合って会うんです。」
当時、タバンは大はやりだったようです。
さてしばらくおしゃべりが続くうち、朴さんがやってきて仲間に入り、もう一人来るはずの鄭さんの話になります。
「この時間になると必ずここに現れる」という金さんの話に、
「忙しいお方なのに……」といぶかるスミスさん。
金「彼は事務所も持ってはいるけれど、お客様を迎えるほどの場所がなくて、ここに来るんですよ。それと、外部との連絡場所にここを使ったりもします。」
スミス「それで、伝言板にメモがいっぱいなんですね。」
そこで朴さんがひと言付け加えます。
朴「もっと重要なことだったら店員さんに頼んでおけばいいんです」
なるほど、タバンという所は人との連絡仲介役を果たしくれる所でもあったんですね。ケータイでの連絡が当たり前の今の世からは、もはや戻ることのできない古き良き時代のお話です。
私の「韓国生活記録」に欠けていた情報をこれらお三方にだいぶ補ってもらいました。お茶を飲むことよりも、自宅や事務所の応接間代わりに人と人とが会って話をする所。伝言板を通して人と人とをつないでくれる所。のどかで、そしてどこか温かいタバンの姿です。あ、肝心のお茶代は? この章、「タバン」というタイトルにもかかわらず、飲み物の話がいっこうに出てこない。ならば、お茶の値段は二人目の助っ人に答えてもらいます。同じく語学堂の「読本」の初版テキスト(1979年初版/1985年4版)に、これまた同じく、「タバン」という章があり、「ソウルにはタバンが多い、たくさんの人たちがタバンに行く、人々はそこで知り合いと話もし、お茶も飲み、音楽も聴く、週末と休日には人がもっと多い」と、初級の読本らしく、簡潔明瞭な文でタバンの様子を描きます。そして「私は先週知り合いと約束があってタバンに行きました。お茶代は100ウォンでした」と。 100ウォン!? ほんとに!? 当時はお茶代も、「のどかな」ものだったようです。
「タバン」は漢字語「茶房」を韓国語読みしたもので、同じ漢字の「サボウ」は日本にもあります。従って、「タバン」は韓国固有語でもなく、元々はお堅い漢字語なのですが、ただただ懐かしい留学時代の日々を過ごした、その語学堂のテキストで覚えた言葉という郷愁も手伝ってか、その音(おん)が私の耳にやさしく、温かく響く「タバン」という言葉が好きで、どこか愛着を感じます。「タバン」という言葉に、どこかしっとり落ち着いた、静かで上品な喫茶室とでも言うべき所が私には思い描かれます。
が、その感慨も’80年代ならばこそのもの。外国から参入したコーヒーチェーン店が増えた今、大都市では「タバン」が皆、「コーヒーショップ」へと名前変えしたと韓国の友人の話。それでも、思い出の「粉で出てきたコーヒー」にはまだ出会える「幸運」は残されているようです。今や、コーヒーショップで豆から挽いたコーヒーが当たり前のソウルを離れて、地方に行けば「タバン」は今も存在し、そこでは「粉のコーヒー」が出されるそう―― “記憶のかなたのタバンのコーヒー”。物は言いよう、単なるインスタントコーヒーもどこか秘密めいて…… いつか又、韓国のどこかで出会えたら、その「粉のコーヒー」はどんな味がするだろう。その味に、記憶の底に沈んでいた、あの頃の私の韓国での日々が思い起こされるだろうか……
延世大学校大学院国語国文学科修士課程卒業。現在、翻訳会社勤務。